奴隷論

今日、ふと考えが浮かんだ。

奴隷とは何だろう。

映画や歴史の授業で見聞きする奴隷のイメージは、
鎖につながれ、鞭で打たれ、自由を奪われた人々だ。

けれど少し調べてみると、
世の中には「奴隷」と呼ばれるものが何種類も存在している。

古代エジプトの奴隷。
ローマ帝国の奴隷。
キリスト教における神の奴隷。

同じラベルでも、中身は驚くほど違う。

古代の奴隷は、多くの場合「所有」される存在だった。
戦争に負けた者や借金を返せなくなった者が、
人の財産として扱われる。

一方で、キリスト教にも神の奴隷という考え方がある。

当時の人々にとって、それは単なる屈従ではなかった。

神に従う。

神の前に身を委ねる。

それはむしろ、
この世の権力や欲望から自由になるための道でもあったらしい。

少し逆説的だ。

自由になるために従う。

現代人の感覚では、
なかなか理解しづらいかもしれない。

そんな世界が長く続いた。

そして時代が進み、
ある哲学者が人間を神から解放した。

デカルトだ。

彼は神から話を始めなかった。

まず、自分から始めた。

「我思う、ゆえに我あり。」

世界が本当に存在するのか。

神は存在するのか。

それらを考える前に、

少なくとも今、考えている自分だけは確かに存在する。

そう言った。

それまで神から始まっていた世界が、
人間から始まるようになる。

少しずつ。

ゆっくりと。

長い時間をかけて。

人は神の奴隷であることをやめ、
理性を信じるようになった。

そして科学が生まれた。

技術が発展した。

人類は空を飛び、
月へ行き、
世界中の人と瞬時に繋がれるようになった。

では、
私たちは自由になったのだろうか。

時々わからなくなる。

神の代わりに、
金に従っている人もいる。

ルールに従っている人もいる。

評価に従っている人もいる。

SNSの反応に従っている人もいる。

AIに答えを求める人もいる。

結局のところ、
人は何かに従わずには生きられないのかもしれない。

だとしたら、

自由とは「誰にも従わないこと」ではなく、

何に従うのかを、
自分で選ぶことなのかもしれない。

ー で、あるならば、僕は解放のための支配をし続けたい。

Leo

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